「正論なんだから、それをやればいいじゃないか」
そう言われる度に、私は胸の奥がざわつく。
正論は確かに理屈としては正しい。
努力すれば報われる、真面目にやればうまくいく、社会のルールに従えば安定する。
どれも反論の余地がないし、理想的な話だ。
しかし、現実はそんな単純なものではない。
努力が必ず報われるわけではないし、真面目にやったところで才能や運には敵わない。
社会のルールに従っても、そもそもそのレールに乗るだけの適性がなければ、うまくいかないこともある。
私はそれを痛いほど思い知らされてきた。
「仕事は慣れればできるようになるし、続けていけば成果が出る」
「社会に出たら、与えられた環境の中でどう生きるかを考えられるようになる」
どれも正論だ。
間違ってはいない。
しかし、それが正解だったなら、私は今ごろ何の問題もなく、普通に働き、普通に生きていたはずだ。
結局のところ、正論を受け入れられるかどうかは、その人の持つ能力や環境次第だ。
私は正論を受け入れるには、あまりにも未熟で、適性がなく、不器用だった。
だから、正論を実践できなかった。
正論を語る人は、正論が通用する世界で生きている。
努力が報われる環境にいて、社会のルールに適応できるだけの能力がある。
だから、彼らにとっては正論こそが正解なのだろう。
しかし、私にとっては違った。
正論を聞けば聞くほど、自分の無力さを突きつけられ、ただ絶望するだけだった。
正論は正しい。
でも、それがすべての人にとっての正解ではない。