私は「人狼」というゲームが好きではない。
何より、それを通じて見せつけられる自分の無力さが嫌だ。
大学に入学した頃、
その「人狼」が空前のブームを巻き起こしていた。
どの界隈に顔を出しても「人狼やろうぜ」という声が飛び交い、
溜まり場と化した部室や誰かの家で熱戦が繰り広げられていた。
ゲームの参加者たちは、夜が更けても目をギラつかせ、
推理と嘘、そして心理戦に夢中になっていた。
私も流れで何度か人狼に参加したことがある。
しかし、面白さが分からない。
うまくゲームに馴染めないし、今どのような状況なのか理解が追いつかないのだ。
ここで、自分は頭を使うゲームが苦手なのだと悟った。
例えば、
「この人の発言とあの人の言動が食い違っているから、この人が怪しい」
という推理のプロセスが、全くと言っていいほど浮かんでこない。
むしろ、何人かが話し合いをしていると、脳内が真っ白になり、
全ての情報が頭を滑り落ちていく感覚に陥る。
いざ自分の発言の番が回ってきたときには、完全にお手上げ状態だ。
供述を集めて矛盾を探し出す、建設的で論理的な考え方ができずに何も言葉にできない。
人狼側に回っても、仲間をかばうどころか、自らの怪しさを全力で露呈してしまう。
周りは誰もが推理を楽しんでいるように見える一方で、
私はただひたすら気まずい思いをしながら、なるべく言葉を発さずにゲームが終わるのを待っていた。
人狼が得意な人たちは、たいてい頭が切れて、場の空気を読むのもうまい。
そんな彼らの横で、どうにも冴えない自分。
話し合いが始まる度、「自分はできない人間なんだ」と突きつけられた。
大学生活を振り返ると、「人狼」というゲームに象徴されるように、
論理的思考や瞬発力が求められる場では何もできず、
気の利いた冗談一つ言えず、ただ空気のような存在で終わることが多かった。
かと思えば、素っ頓狂な発言をして場を冷やすことも多かった。
あの頃、私はずっと「自分の居場所」を探していた。
頭を使うことが求められる場や、論理的な議論が中心のコミュニティには、居心地の悪さしか感じられなかった。
何かを言えば場を冷やし、黙っていれば無能とみなされる。
結局、どこにいても「役立たず」という烙印を押される気がして、
心がじわじわと黒いものに飲み込まれていった。
逃げ場のないこの世界で、私の闇は誰にも救われることなく、永遠に広がり続けるのだろう。